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横浜地方裁判所 昭和60年(行ウ)25号 判決

原告

北見正一

被告

長洲一二

右訴訟代理人弁護士

岡昭吉

被告訴訟参加人

神奈川県知事長洲一二

右訴訟代理人弁護士

福田恆二

右指定代理人

水口信雄

小野康夫

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告(請求の趣旨)

1  被告は神奈川県に対し金二〇億八二万五〇〇〇円及びこれに対する昭和六〇年七月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  被告(請求の趣旨に対する答弁)

1  本案前の答弁

(一) 本件訴えを却下する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

2  本案の答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は神奈川県横浜市の住民であり、被告は昭和五〇年四月以降神奈川県知事の地位にある。

2  被告は、昭和六〇年三月一五日、神奈川県知事として、別紙記載の神奈川県職員の給与に関する条例(以下「本件給与条例」という。)一五条四項の規定等に基づき、同県職員全員八万三三人に対し総額二〇億八二万五〇〇〇円(一人当たり一律に二万五〇〇〇円)の期末手当の上乗せ支給を承認し(以下「本件承認」という。)、別表2記載の各任命権者はこれに基づいて同額を支給した(以下「本件支給」という。)。

3  しかしながら、本件支給は、次のとおり、法令に違反し又は裁量権の濫用として、違法である。

(一) 憲法一五条違反

神奈川県(以下、単に「県」ということがある。)の職員数は同県民の約一パーセントに相当する約八万人にすぎないから、このような県職員たる公務員に対しいわれの乏しい公金を乱費した本件支給は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と規定した憲法一五条二項に明らかに違反し、違法である。

(二) 給与条例主義違反

被告が本件支給の根拠とした本件給与条例一五条四項の内容は、知事の裁量権に対して全く歯止めのない白紙的包括的な委任を認めるものであり、地方自治法二〇四条三項及び地方公務員法二五条三項に規定する給与条例主義の趣旨に違反し、違法である。

(三) 均衡原則及び情勢適応原則違反

今日、公務員、特に地方公務員の退職金、年金を含む生涯給与は明らかに官高、民低となつているばかりか、公務員の人員と勤務振りには余裕があり、これに対する国民の批判は高まりつつある。したがつて、一部民間企業のデータだけを抽出して算定される人事院勧告の内容それ自体にも承服し難い面もある。

また、仮に人事院勧告が尊重されるべきであるとしても、財政再建を至上命題として官民挙げて国是である行革の推進、人事院勧告の凍結、抑制に努めている状況下では、そのような方針に従うべきである。公務員の場合、定期昇給だけは少くとも毎年確実に行われているわけであるし、特に神奈川はラスパイレス指数が都道府県別で全国一の高額であり、退職金も最高であるからなおさらのことである。

それにもかかわらず、特殊事情や特段の理由も全く存在しないのに被告が本件支給をしたのは正に暴挙というべく、これは、給与の根本基準を定めた地方公務員法二四条三項(均衡の原則)及び同法一四条(情勢適応の原則)に違反し、違法である。

(四) 自治省の事前警告違反

本件の是非については神奈川県議会だけでなく、国のレベルでも問題とされた。すなわち、本件支給に先立つ昭和六〇年三月七日の衆議院内閣委員会及び同年三月一一日の参議院予算委員会において、所管の自治大臣だけでなく、首相や総務庁長官までが、本件支給については、他の自治体にも悪影響を及ぼすので厳しく対処する旨の警告の答弁をしている。

のみならず、同月七日には、自治省行政局長から神奈川県知事宛ての通達が出され、神奈川県の給与制度全般について「再三是正を行うよう要請しているのに、いまだ適正な措置が講じられていない」と厳しく指摘された。さらに、その後知事が自治大臣に呼ばれ、本件支給及びその根拠たる本件条例中の該当条項の削除並びに給与全般の是正を強く要請されたのである。

したがつて、被告が敢てそれらを総て無視し、昭和六〇年三月一五日にした本件支給は、それだけ罪深い違法なものである。

(五) 国策違反

前記(三)、(四)のとおり、本件支給は、財政再建の国策に違反するものであり、違法である。

(六) 善管義務及び正義、衡平の原則違反

本件支給は、神奈川県民の負託を受けて公有財産を善良に管理する義務に違反すると共に、正義衡平の原則に違反するものであり、違法である。

(七) 信義誠実の原則違反

本件支給は、住民の生活環境、福祉向上に尽すべき行政に対し不信を募らせる背信行為であり、違法である。

(八) 新規採用者に対する支給の違法

本件支給対象職員中には、本件給与条例の一五条二項の期末手当支給基準日たる昭和六〇年三月一日までの在職期間が、三か月に満たない新規採用者一六名が含まれている。しかし、右条例の規定によれば、このような在職期間三か月未満の職員に対する期末手当支給割合は最大限に見積つても一〇〇分の八〇にとどまる。したがつて、新規採用者に対しても一律に一人宛て二万五〇〇〇円とした本件支給は、少なくともその一〇〇分の二〇に相当する一人宛て五〇〇〇円(合計八万円)の支給の限度で本件給与条例に違反し、違法である。

4  本件支給からわずか半年経過後の昭和六〇年九月の神奈川県議会において、本件給与条例の該当条項(一五条四項)の削除が提案され、可決されている。このようなことからも明らかなとおり、被告は、既に本件支給時に違法についての認識があつたもので、本件支給は故意又は過失による違法行為である。

5  神奈川県は、本件支給という被告の違法行為により二〇億八二万五〇〇〇円の公金支出による損害を被つた。

6  原告は、地方自治法二四二条一項に基づき、昭和六〇年四月九日、神奈川県監査委員に対し、監査請求をしたところ、同年五月二一日、右請求には理由がない旨の通知を受けた。

7  よつて、原告は、地方自治法二四二条の二第一項四号に基づき、神奈川県に代位して、神奈川県知事個人である被告に対し、第一、一記載の判決を求める。

二  被告の本案前の主張

原告は、被告が神奈川県知事として違法に公金を支出したと主張し、被告の神奈川県に対する損害賠償義務の履行を代位請求する。

しかしながら、右賠償責任の存否、範囲の決定及びその責任の実現は、専ら地方自治法二四三条の二所定の手続によつてなされるべきものであつて、これとは別個に、住民が被告に対し、同法二四二条の二第一項四号の規定に基づき、神奈川県が被つた損害の賠償を代位して求めることはできないと解すべきである。

よつて、本件訴えは、不適法として却下されるべきものである。

三  本案前の主張に対する原告の反論被告の本案前の主張は、大多数の判例の考え方に反するものであるばかりか、非現実的な立論であつて、失当である。

四  請求原因に対する被告の認否及び

主張

(認 否)

1  請求原因1、2記載の事実は認める。

2  同3ないし5は争う。

3  同6記載の事実は認める。

4  同7は争う。

(主 張)

1  本件支給の根拠法規とされた別紙記載の本件給与条例(昭和三二年神奈川県条例第五二号)一五条四項及び学校職員の給与等に関する条例(昭和三二年神奈川県条例第五六号、以下「本件学校給与条例」という。)一九条四項は、昭和三五年六月定例県議会において提案、可決されて追加された条項である。これは昭和三五年当時、神奈川県においては、経済成長期に入つた民間企業との給与格差を埋める必要に迫られたため、任命権者が参加人の承認を得たうえで、予測しがたい情勢の変化に即応した措置を取りうることを県議会が認め、神奈川県人事委員会の異議はない旨の意見をも踏まえて制定されたものである。

2  元来、地方公務員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならず(地方公務員法二四条一項)、生計費に加え、国及び他の地方公共団体の職員並びに民間事業の従事者の給与その他の事情を考慮して、定められなければならない(同法二四条三項)。

しかし、公務員の地位の特殊性と職務の公共性のためにその労働基本権は相当の制約を受ける反面、その代償措置として、民間における賃金水準に比して不利とならぬよう、国家公務員については人事院、地方公務員のうち、人事委員会の設置されている地方公共団体のそれについては、人事委員会による給与勧告の制度が設けられ、合理的な給与改定が適時に行われる建前になつている(国家公務員法三条、六七条、地方公務員法七条ないし一二条、二六条)。

3  ところで、神奈川県においては、昭和五〇年度以降、さまざまな行政システム改革に取り組んで来たが、右2のような性格を有する人事委員会勧告の全部又は一部が昭和五七年度以降、実施されなかつたため、民間給与との間に相当の格差が生じ、職員全体の志気の低下が懸念された。

他方、東京都は、昭和五八年度において、別表1記載のとおり、国家公務員に対して国が実施した改定率の二倍以上の高率で給与の改定を行い、また、県内市町村は、従前同様、期末手当について、相当額の加算を行つている。

そのため、神奈川県職員に対する別表2記載の各任命権者は、昭和六〇年度を間近に迎えるにあたり、右のような状況を放置せずにこれに対して何らかの是正措置を講ずる必要があるとの共通の認識を有するに至つた。そこで、各任命権者は、相互に十分な意見交換を行い、諸般の情勢に照らすと前記1の本件給与条例一五条四項及び本件学校給与条例一九条四項に則り、一人当り二万五〇〇〇円の期末手当の増額措置を取るのが妥当であるとの結論に達した。右二万五〇〇〇円の金額については、人事委員会の勧告結果によると、昭和五七年度以降の県議員の期末・勤勉手当と県内の民間企業における一時金の支給状況の格差が、三年間の累積で〇・二か月分に達していたので、その相当金額を新規採用職員の過半数を占める大学卒業者の初任給で算出して得た二万五八九八円を勘案したものである。

4  かくして、各任命権者は、参加人の承認を得て、昭和六〇年三月一五日、各所属職員に対し、期末手当の増額分各二万五〇〇〇円を支給したものであり、各任命権者別支給人員は、別表2記載のとおりである。

5  本件支給は、右2、3の理由に基づき前記1の条項を根拠にしてなされたものであつて、原告主張のような違法はない。すなわち、

第一に、本件支給は、使用者として、職員をして全体の奉仕者たるに相応しく職務に精励させるための措置を取つたものというべきであつて、それが憲法一五条二項に違反するとは到底考えられない。

第二に、給与条例主義の本来的意義は、職員に対し給与条件を保障するという趣旨の他に、給与の支給が究極的に住民の代表である議会の意思に基づくという趣旨であるから、給与に関する基本的事項が条例で法定されたうえで、議会が任命権者及び参加人に対して、限られた範囲の委任を行う旨の条例を定めることは、給与条例主義の趣旨を否定するものではなく、当然許されるものといわなければならない。したがつて、本件支給の根拠となつた本件給与条例一五条四項、本件学校給与条例一九条四項の規定は給与条例主義に違反しない。

第三に、地方公務員法二四条三項によれば、国の職員の給与は、自治体職員の給与を定める際に考慮すべき五つの要素の一つにすぎないのみならず、都道府県及び政令指定都市は、地方自治の本旨に照らし、人事委員会を設置し、地域的特性が考慮された勧告に従い、独自に給与を改定しうる仕組となつているのであるから、地方公共団体が、給料及び諸手当の中で、限られた部分について、国の職員のそれを上廻る基準を設けたとしても、均衡の原則に何ら違反するものではないことは明らかである。

また、人事委員会の勧告制度は、労働基本権制約の代償措置であり、その勧告内容は最大限に尊重されるべきであつて、地方公務員法一四条は、それを前提として、地方公共団体が、民間給与等との格差を是正するため、すみやかに適切な措置を講ずることを義務づけたものというべきである。したがつて、民間及び近隣の地方公共団体の給与との格差を是正し、人事委員会の勧告制度の趣旨に沿う本件支給は、それによつて、限られた部分において、国の職員の基準を上廻る結果となつたとしても、地方公務員法一四条に違反するものとは到底考えられない。

第四に、なるほど、参加人は、自治省行政局長より、昭和六〇年三月七日付で、再考要請の書簡を受領したことは事実であるが、右は単なる要請文であつて、その趣旨に沿わなかつたとしても、何らの法的効果を伴うものではないから、各任命権者及び参加人が、前記の理由及び経過により、地方自治の本旨に照らし、自らの判断で、本件支給を実施しうるのは当然である。

第五に、本件支給は、前記のとおり、県議会により、適法に可決され、公布された条例に基づいて、適法に実施されたものであるところ、本件支給を行うべき合理的理由が存し、かつ、その金額も、合理的な範囲内のものであることは明らかであるから、各任命権者が、裁量権を濫用したものとは到底考えられず、また、原告主張の請求原因3の(五)ないし(七)の如き義務違反があつたものとも到底考えられない。

第六に、本件給与条例一五条四項の適用にあたつては、同条二項の内容に拘束されるものではないから、新規採用者一六名に対し在職期間の区分による差を当然に設けなければならないというものではない。そこで、各任命権者及び参加人は、人事委員会による勧告内容の実施の凍結又は抑制が初任給の額等にも影響を及ぼしていること、本件支給が昭和六〇年度以降も職員の志気を高揚させるべき必要がある点をも考慮のうえで実施されるものであること、これまで同条四項による増額支給において在職期間の区分による差が設けられた例は全くなかつたこと、本件支給が新規採用者の初任給を参考として一律二万五〇〇〇円の支給としたものであること等の諸般の事情を考慮し、全職員を平等に取り扱つたものであつて、この措置が裁量権の濫用といえないことは明らかである。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一本件訴えは、被告が神奈川県知事として違法に同県職員全員に総額二〇億八二万五〇〇〇円(一人当たり一律二万五〇〇〇円)の期末手当の増額支給(本件支給)をしたとして、原告が地方自治法二四二条の二第一項四号に基づき神奈川県に代位して被告に対し右同額の損害賠償を求める、というものであるところ、被告は、このような賠償責任の存否、範囲の決定及びその責任の実現は専ら同法二四三条の二所定の手続によつてなされるべきもので、これを住民訴訟の形式で実現することは許されていないから、本件訴えは不適法である旨主張する。

しかしながら、同法二四三条の二第一項所定の職員の行為により当該地方公共団体が損害を被つた場合、当該地方公共団体の右職員に対する損害賠償請求権は、同条一項所定の要件を充たす事実があればこれによつて実体法上直ちに発生するものと解するのが相当であり、同条三項以下の規定のゆえに、同条が同条一項所定の職員の行為について同条三項に規定する賠償命令による以外にその責任を追及されることがないことまでをも保障した趣旨のものであると解することはできない。のみならず、その職責に鑑みると、普通地方公共団体の長の行為による賠償責任については、他の職員と異なる取扱をされることもやむを得ないものであり、同法二四三条の二第一項所定の職員には当該地方公共団体の長は含まれず、普通地方公共団体の長の当該地方公共団体に対する賠償責任については民法の規定によるものと解するのが相当である。そうすると、同法二四二条の二第一項四号の規定に基づく損害補てんの代位請求訴訟においては、当該訴訟が同法二四三条の二第一項所定の職員に対し同項所定の行為を理由として損害の補てんを求めるものであるか否かによつて訴えの適否が左右されるものと解すべき理由はないのみならず、当該訴訟が当該地方公共団体の長の行為による損害の補てんを求めるものである場合には、実体法的にも同法二四三条の二の規定を顧慮する必要はないものといわなければならない(以上の判断につき、最高裁昭和六一年二月二七日第一小法廷判決・判例時報一一八六号三頁参照)。

よつて、被告の本案前の主張は採用することができない。

二そこで、進んで本案について判断するが、当事者の地位が請求原因1のとおりであること、同2のとおり本件支給がなされたこと及び同6のとおり監査請求手続が経由されたことは、いずれも当事者間に争いがない。

ところで、本件支給というのは、被告が神奈川県知事としてした本件承認に基づき、各任命権者が職員一人当たりにつき一律二万五〇〇〇円を支給したというものであるから、本件承認行為は、期末手当の増額支給を承認する行為でありそれ自体財務会計上の行為として住民訴訟の対象となると解することができる。そして、原告は、各任命権者を除外し被告のみを当事者として本件支給行為の違法を問題とし、これが損害賠償を求めているので、被告が知事としてなした本件承認について、民法七〇九条にいう違法性の存否を判断することとし、先ず、本件支給の経緯を、次いで被告による本件承認の適否について検討する。

三(本件支給の経緯)

〈証拠〉によれば、神奈川県知事としての被告による本件承認及び別表2記載の各任命権者による本件支給は、以下のような経緯でなされたものと認められる。

1  神奈川県では昭和五〇年ころからいわゆる行政改革に取り組んでおり、その内容は、電算機導入による事務手続の合理化、経費節減、人員削減等であり、また同五三年以降は総定員数を維持したまま、一般行政部門から癌センターの設立等に伴なう医療・福祉部門の拡大によつて必要となつた部局へ職員を配置換えし、さらに出先機関を縮小するような措置が採られたこと、

2  神奈川県の職員の給与等については神奈川県人事委員会による給与勧告の制度が設けられているところ(地方公務員法七条一項、八条一項二号参照)、同委員会は、昭和三三年から勧告を開始し、当初は実施時期が一〇月に繰り下げられるといつた点で勧告が不完全に実施されたものの、同四五年度から同五六年度までは、同委員会の勧告は完全実施されてきたこと、

ところが、同五七年度から同五九年度にかけては、別表1の「神奈川県」欄のとおり、同委員会の給与勧告は、同五七年度の勧告率三・九七パーセントが全部実施されず、同五八年度の勧告率五・七三パーセントが二・〇三ハーセント、同五九年度の勧告率五・六九パーセントが三・三七パーセント実施されたのみであつたこと、これは政府において、危機的状況にある財政の再建を理由として国家公務員の給与に関する人事院勧告を凍結ないし抑制する旨の閣議決定がなされたことから、神奈川県においても他の地方公共団体と共にこれに呼応したためであること、

3  右1、2の状況にあつたため、神奈川県の別表2記載の各任命権者及びその所部の人事・給与関係の担当者は、県人事委員会の勧告の不完全実施により、職員が民間給与との間の格差、不公平感のみではなく、前記1のとおりの一般行政部門における人員減の下での情報公開制度というような新施策の実施等による職務の負担増感を抱き、これにより職員の志気の低下、組織の沈滞化が生じることを懸念するようになつたこと、

また、昭和五九年一〇月一五日になされた同五九年度神奈川県人事委員会の勧告に際しては、人事委員長が、「人事委員会の勧告制度が労働基本権の代償措置であり職員にとつて唯一の給与改善手段となつているにもかかわらず、勧告の実施が見送られ又は抑制されたのは異例であり、民間給与との均衡を確保し、職員全体の高い志気の維持と一層の活性化を図るため、勧告の完全実施を求める。」旨の強い調子の談話を発表していたこと、

他方、昭和五八年度における東京都のように、不完全とはいえ、別表1のとおりに国のレベルの倍程度の割合で人事委員会の勧告を実施した例もあり、また神奈川県内の民間企業はいわゆる大都市圏の賃金事情等を反映し、給与も比較的高いという状況にあつたところから、県内市町村においても期末・勤勉手当といつた一時金について毎年増額措置を採つている例が多く見られたこと、

4  そこで、昭和六〇年度を間近にしたころ、各任命権者所部の各総務室長及び総務課長において前記の問題を協議し、何らかの措置を採らなければならないとの結論に達したので、これを各任命権者段階の協議の場に移したところ、各任命権者もまた同様の結論に達したこと、

ただし、具体的にどのような措置を採用するかについては、人事委員会の勧告の一部実施ということで給与改善率を高めるという方法は後年度への影響も大きいので相当ではないが、本件給与条例一五条四項及び本件学校給与条例一九条四項に基づき期末手当を増額するという方法であるならば、単年度の措置で財政負担も軽くなるので、適切であろうということになつたこと、

次に、加給に係る一時金の額をいくらに定めるかについては、昭和五七年度から同五九年度までの三か年の期末・勤勉手当の支給累積で、神奈川県職員の場合が県内民間企業の場合に比べて〇・二か月分少ないとの調査結果が人事委員会の報告にあつたため、この〇・二か月分を基準とすることとし、なお、これには、右のとおり勤勉手当分も若干(〇・〇四か間分)加味されていることに加え、期末手当の増額の額を出来る限り低額に抑えて財政負担を軽減しようとの配慮から、その算出にあたつても、職員毎の給科と扶養手当の月額の合計額に右〇・二か月分を乗ずるという方式を採ることなく、新規採用職員の過半数を占める大学卒業者の初任給を基礎にして算出することとし、この方式によると約二万五〇〇〇円となるので、これを勘案して二万五〇〇〇円という額が取り上げられ、この金額を給与の高い職員に対しても一律に支給するものと定められたこと(なお、この方式により算出された合計額は、各職員の給料及び扶養手当の月額の合計額(全職員の平均給与月額は調整手当を含み二六万一九二六円)を基礎とし、これに県内の民間企業との三か年の期末手当のみの累積差額(〇・一六か月分)を乗じた額の合計額よりも低額である。)。

5  また、昭和五九年一二月以降の中途採用者についても、他の者と同様に二万五〇〇〇円の期末手当増額という考え方が採用されることになつたが、これは、それまでの過去三年間の人事委員会勧告の凍結ないし不完全実施が新規採用者への初任給額にも影響し、初任給が、勧告の完全実施の場合と比較すれば相対的に低く抑えられていたこと、新規採用者にも昭和六〇年度以降の行政改革ないし施策の展開に他の職員と同様に協力して貰う必要があり、期末手当の増額支給で一律に扱う方が職員全体の志気の高揚と活性化に役立つと思われたこと、先例として新規採用者にも一律支給した場合があつたこと等を考慮したためであつたこと、

6  そこで、各任命権者は、神奈川県知事としての被告の承認を得て、昭和六〇年三月一五日本件支給をしたこと、

以上の各事実が認められ、これを左右するに足りる証拠はない。

四前記認定の本件承認及び本件支給についての経緯を踏まえ、本件承認についての原告主張の違法事由を検討する。

1  (給与条例主義違反について)

(一)  給与条例主義は地方自治法二〇四条及び地方公務員法二五条三項に定められているが、その趣旨は、第一に、地方公共団体の職員に対する給与の支給については住民自治の原則に基づく住民の同意が必要であるところ、住民の代表者から成る議会がこれについて条例に定めることをもつて右の住民の同意に代えることができるので、職員の給与については条例で定める必要があるということであり、また、第二に、職員に対し給与条件を保障するためには、これを地方公共団体の最高規範たる条例によつて定める必要があるということである。

これを本件についてみるに、地方自治法二〇四条二項所定の期末手当につき、本件給与条例は一五条一項ないし三項において、また本件学校給与条例は一九条一項ないし三項において、それぞれ別紙のとおり期末手当の支給要件及び支給額を具体的に定めた上、それぞれ四項において、「任命権者が必要と認める場合は、知事の承認を得て、第二項の規定による期末手当の額を増額することができる」と定めているにすぎないから、右各条例は、任命権者に対し、知事の承認の下に、期末手当の額を増額することは認めているが、その具体的な額については明確に定めていないものといわざるをえない。

しかし、〈証拠〉によれば、右各四項の規定は、昭和三五年六月の県議会において可決され、同月期の期末・勤勉手当の支給時から適用されたものであること、これは、同三五年当時のいわゆる高度経済成長時期における民間の給与との予測し難い較差を臨機に是正する目的で設けられた条項であり、当時の神奈川県人事委員会もまた県議会に対し右条項の設置に異議がない旨を申し出ていたこと、その後昭和四九年度まで毎年右条項に基づく増額措置が講じられてきたこと、大阪府、京都府、愛知県及び神奈川県下の市町村等が同趣旨の定めの条例を有していること、以上の各事実が認められ、これを左右するに足りる証拠はない。

右認定事実によれば、本件給与条例一五条及び本件学校給与条例一九条の各四項の規定は、県内における民間企業との給与の予測し難い較差に臨機に即応するための例外的な措置として設けられた規定であるということができるから、予めその増額の具体的な額を条例に定めておくことは至難のわざといわざるを得ないし、また、期末手当の額は本件給与条例一五条及び本件学校給与条例一九条の各一項ないし三項によつて明確に定められているから、右各四項による増額の額は、右一項ないし三項所定の額との釣合い及び社会通念上からも自ら限定されているということができるのみならず、任命権者がその額を自由に決め得るのではなく、知事によつて適切な規制が加えられることになつているものということができる。

そうすると、右各四項の期末手当の増額についての定めは、給与条例主義からみると必ずしも好ましい規定とはいい難いが、他方右規定が違法な規定であるとまではにわかに断定し難い。

したがつて、右各規定に基づく期末手当の増額の措置が違法か否かは具体的な事案毎にその内容について判断することが必要であり、その額が社会通念上許容される範囲を越えているような場合には、かかる期末手当の増額は、給与条例主義に反し、違法となるというべきである。

なお、〈証拠〉によれば、本件支給から約半年後の昭和六〇年九月に本件給与条例一五条四項及び本件学校給与条例一九条四項の各規定が削除されたが、その際「この規定は、給与を条例で定めるとする給与法定主義に照らしてみると、現時点では疑義がある。」との提案理由が県から示され、また知事としての被告からは、「削除するのは、現時点ではない方が良いと判断したから」との説明がなされたことが認められるところ、右各規定が給与条例主義からみて好ましからざる規定であつたことは前記説示のとおりであるから、右規定が削除されたことは極めて好ましい措置であつたということはできても、そのことから直ちに右各規定が違法であつたとまでは断定することができない。

(二) そして、本件承認及び本件支給は、前記認定のとおり、県では昭和五七年度ないし五九年度の人事委員会の給与勧告の全部又は一部を実施しなかつたために、県内における民間企業の給与とも較差が生じ、同委員会の調査報告によつても、右三か年の期末手当等の累積差額のみでも給与の〇・二か月分(期末手当分のみとすると〇・一六か月分)の較差が生じていたこと、そこで、新規採用者の初任給の月額を基礎とし、これに〇・二か月分を乗じて算出した二万五〇〇〇円(この額は、調整手当を除く県職員の平均給与月額を基準にしてこれに、期末手当のみの累積差額相当分である〇・一六か月分を乗じて算出される額よりも著しく低額である。)を期末手当の増額分として一律に支給するというものであつたにすぎない。

そうすると、本件承認に基づく期末手当の増額は、財政負担の軽減を考慮した控え目な額であるということはできるとしても、これをもつて、社会通念上許容し得る限度を超えているとは、にわかに断定し難い。

したがつて、本件承認又は本件支給をもつて、給与条例主義に違反するということはできない。

2  (均衡原則及び情勢適応原則違反について)

原告は、人事院勧告の内容の正当性に疑義を呈し、さらに行政改革の推進及び人事院勧告の凍結ないし抑制が叫ばれている時期に、ラスパイレス指数(これは、一般に、同職種の地方公務員と国家公務員とを学歴別、経験年数別に区分し、それぞれの区分における国家公務員数にその区分に属する国家公務員の平均俸給月額と地方公務員の平均給料月額とをそれぞれ乗じ、こうして得た各区分別の金額を国家公務員と地方公務員とに分けて集計し、前者で後者を除したもの、と説明される。)や退職金が全国でトップクラスにある神奈川県において、本件承認に基づいて本件支給をすることは、地方公務員法二四条三項の均衡原則及び同法一四条の情勢適応原則に違反する旨主張する。

人事院又は県人事委員会は、国家公務員又は地方公務員の給与その他の勤務条件の改善の勧告等を所掌事務とする独立の専門機関であり(国家公務員法三条、六七条、地方自治法二〇二条の二第一項、地方公務員法七条、八条、二六条参照)、そして、その勧告は労働基本権の代償措置であるところから、政府又は地方公共団体はこれを十分に尊重し真摯にその実施に努めていることは公知の事実である。ところで、人事院勧告は、民間の賃金やその他の事情を調査・検討のうえなされるものであり(国家公務員法六七条、六四条)、また県人事委員会勧告は民間の賃金、国家公務員の給与その他の事情を調査・検討のうえなされるのであるから(地方公務員法二四条ないし二六条)、県の場合には、県人事委員会の勧告に従うことは、均衡の原則(地方公務員法二四条三項)及び情勢適応の原則(同法一四条)を遵守することに結びつくことにもなるのである。

なお、〈証拠〉によれば、神奈川県はラスパイレス指数も退職金も全国のトップクラスにあるが、他方、県内における民間企業と県職員の給与をラスパイレス方式により比較すると民間企業の方が高く、大都市圏の賃金事情等を反映しているところ、かかる事情を調査・検討したうえ、県人事委員会の勧告となつたことが認められ、これを左右するに足りる証拠はない。

そうすると、神奈川県において、給与の改定につき、国又は他の都道府県と歩調を合わせ、同じ改定率をもつて人事委員会勧告を不完全に実施したからといつて、これをもつて、直ちに均衡原則又は情勢適応原則に適つているともいい難いことは明らかである。その上、本件承認及び本件支給は、単年度についての期末手当の控え目な増額にすぎないことは前記認定のとおりであるから、財政再建のために人事院勧告を凍結ないし抑制しようとの政府の方針に呼応しなかつたとしても、それは期末手当の増額という給与の極く限られた一部についてのみであり(昭和五八年度については、東京都は給与についての国の改定率の倍程度の改定を実施しているが、神奈川県は県人事委員会の勧告を国と同じ改定率で不完全に実施していることは前認定のとおりである。)、かかる措置にすぎない本件承認及び本件支給をもつて、直ちに均衡原則や情勢適応原則違反であるとも断定し難い。

3  (自治省の事前警告違反の違法について)

〈証拠〉によれば、本件支給がなされるとの方針が神奈川県で決定されたことに対し、昭和六〇年三月七日の衆議院内閣委員会及び同月一一日の参議院予算委員会において問題とされ、自治省は同委員会において、神奈川県に対し本件支給をしないように要請している旨及び仮に本件支給がなされた場合には特別交付税を減額する意向である旨を明らかにしたこと、そして総理大臣及び総務長官が本件支給に反対である旨を表明したこと、また、自治省行政局長から神奈川県知事宛に同月七日付けで、本件支給は地方公共団体全体に対する不信を招き、地方自治行政の円滑な運営に重大な支障となるおそれがあるので、慎重な判断の下に再考されるよう強く要請する旨の文書が発出されたこと、以上の各事実が認められる。

右認定事実によれば、本件承認及び本件支給は、少なくとも政治的、行政的にみると、相当に問題を有したものといわざるを得ない。しかしながら、前記三で認定した事情を考慮すれば、被告が知事としてなした本件承認は、当、不当の問題は別として、裁量権濫用の違法があるとまではいうことができない。

4  (その他の違法事由について)

(一)  原告は、県民の約一パーセントにすぎない県職員にいわれの乏しい公金を乱費した本件支給は、公務員が全体の奉仕者である旨を規定した憲法一五条に違反する旨を主張するが、すでに説示したところからも明らかなとおり、本件承認及び本件支給がいわれの乏しい公金の支出であるとはいい難いから、原告の右主張は前提において既に採用することができない。

(二)  また、本件承認及び本件支給は、財政再建のための政府の人事院勧告の実施の抑制の方針自体には一部副わなかつた面を有することになるが、それだからといつてこれをもつて直ちに違法とまでいえないことは、すでに説示したとおりである。

なお、本件承認及び本件支給が善管義務、正義衡平の原則ないし信義誠実の原則に抵触しないことはすでに説示したところからもおのずと明らかである。

5  また、原告は、本件給与条例一五条二項及び本件学校給与条例一九条二項の規定によれば、本件支給時までの在職期間が三か月に満たない一六名の新規採用者に対しては、最大限、増額期末手当の八〇パーセントしか支給できないはずであり、その点で一律に二万五〇〇〇円を支給したのは違法である旨主張する。

しかし、本件期末手当の増額は、本件給与条例一五条及び本件学校給与条例一九条各二項の規定に従つて算出されたものではないから、在職期間の三か月に満たない新規採用者に対する増額支給分が当然にその他の職員の八〇パーセントでなければならないと解する必要もないのみならず、本件期末手当の増額にあたり、職員の給与及び在職期間に関わりなく、全職員につき一律に一定額を定めることが、職員全体の志気の高揚と活性化に役立つと判断されたので、これを一律に二万五〇〇〇円と定めたことは前記認定のとおりである。

そうすると、在職期間を区別せずに一律に二万五〇〇〇円を支給する旨の本件承認ないし本件支給をもつて、違法とはいうことができない。

なお、〈証拠〉によれば、神奈川県は昭和五八年六月に特別職を除く全職員を対象に三万円の貸付け措置を講じ、対象者の約九九パーセントが現実に右貸付け制度を利用したこと、本件支給は右貸付けの返済免除を目的としたものではないかとの疑いが持たれたことが認められる。

しかし、右貸付額と本件支給額とが正確に対応するわけではないことに加え、〈証拠〉によれば、本件支給後に右借受金を全額返済した者は借受人全体のうちの約三割にすぎないことが認められることに照らし、被告が本件期末手当を増額し、全職員から右貸付金を回収することを目的として本件承認及び本件支給をしたものであるということはできない。

五以上のとおりであるから、被告が知事としてなした本件承認には、不法行為の要件である違法性があるとまではいうことができない。

六したがつて、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用(参加によつて生じた費用を含む)の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条及び九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官古館清吾 裁判官岡光民雄 裁判官竹田光広)

別表1

人事院及び人事委員会の給与勧告とその実施状況

区 分

57年度

58年度

59年度

勧告率(%)

改定率(%)

勧告率(%)

改定率(%)

勧告率(%)

改定率(%)

4.58

6.47

2.03

6.44

3.37

東京都

4.50

6.31

4.50

3.91

2.7

神奈川県

3.97

5.73

2.03

5.69

3.37

別表2

任命権者別支給人員

任命権者

支給人員

1

知事

13,176

2

警察本部長

14,542

3

選挙管理委員会

6

4

海区漁業調整委員会

3

5

議会の議長

86

6

代表監査委員

41

7

人事委員会

45

8

教育委員会

52,134

別紙職員の給与に関する条例(昭和三二年一〇月一二日神奈川県条例第五二号)

(期末手当)

第一五条 期末手当は、三月一日、六月一日及び一二月一日(以下この条においてこれらの日を「基準日」という。)にそれぞれ在職する職員に対して、それぞれ基準日の属する月の人事委員会規則で定める日に支給する。これらの基準日前一箇月以内に退職し、又は死亡した職員(第二〇条第七項の規定の適用を受ける職員を除く。)等で人事委員会規則で定めるものについても、同様とする。

2 期末手当の額は、それぞれその基準日現在(退職し、又は死亡した職員等にあつては、人事委員会規則で定める日現在)において職員が受けるべき給料及び扶養手当の月額の合計額(人事委員会規則で定める管理又は監督の地位にある職員にあつては、その額に給料月額に一〇〇分の二五を超えない範囲内で人事委員会規則で定める割合を乗じて得た額を加算した額)に、三月に支給する場合においては一〇〇分の五〇、六月に支給する場合においては一〇〇分の一四〇、一二月に支給する場合においては一〇〇分の一九〇を乗じて得た額に、基準日以前三箇月以内(基準日が一二月一日であるときは、六箇月以内)の期間におけるその者の在職期間の区分に応じて、次の表に定める割合を乗じて得た額とする。

在職期間

割合

基準日が三月一日

又は六月一日である場合

基準日が一二月一日

である場合

三箇月

六箇月

一〇〇分の一〇〇

二箇月一五日以上三箇月未満

五箇月以上六箇月未満

一〇〇分の八〇

一箇月一五日以上二箇月一五日未満

三箇月以上五箇月未満

一〇〇分の六〇

一箇月一五日未満

三箇月未満

一〇〇分の三〇

3 前項に規定する在職期間の算定に関し必要な事項は、人事委員会規則で定める。

4 任命権者が必要と認める場合は、知事の承認を得て、第二項の規定による期末手当の額を増額することができる。

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